研究トッピクス
認知症と漢方薬
1. はじめに
今日,わが国では急速に少子高齢化が進行し,人口に占める65歳以上の高齢者の割合が増加しています。また,食習慣をはじめとする生活習慣は,ますます欧米化しているほか,社会生活は,これまでにない熾烈な競争的社会へと変貌しています。このような人口構成の変化,社会構造や生活環境の変化は,日本人の疾病構造にも大きな影響を与えています。
その代表的影響の一つが認知症に代表される老人性疾患や糖尿病,高血圧,脳梗塞などの生活習慣病です。とりわけ,脳血管性障害やアルツハイマー病等の認知症は,患者本人は当然のことながら,介護する家族の負担や医療経済的な負担も大きい疾患ですので,その患者数の急増は大きな社会問題にもなります。したがって認知症の予防や治療に役立つ薬の開発や認知症が起こる原因の究明は,重要な研究課題です。私たちは漢方薬をはじめ伝統薬物の研究からこの難題の解決に取り組んでいます。
2.認知症の原因,危険因子,症状
2.1. 認知症の原因
認知症とは,一旦正常に発達した知能が,後天的,即ち生まれた後に起こる脳の器質的障害のために低下し,正常な社会生活や日常生活を営むことができなくなった病態を言います。
認知症は,大きくi)アルツハイマー型認知症,ii)脳血管性認知症,さらにiii)アルツハイマー型認知症と脳血管性認知症が混合した混合型の3つのタイプに分けられています(図1)。
アルツハイマー型認知症は,脳内の神経細胞の減少,脳の萎縮,老人斑・神経原線維変化の出現が特徴で,脳の中にβアミロイドと呼ばれるタンパク質が切り出されてたまり出すことが原因の一つとされています。βアミロイドが脳全体に蓄積することによって健全な神経細胞が変性・脱落して,脳の働きが低下し,脳萎縮が進行すると言われています。
一方,脳血管性認知症は,脳の血管障害や脳血管が詰まったり狭くなったりして起こる脳梗塞,あるいは脳出血によって起こります。その結果,脳の働きが悪くなり,認知症になります。
2.2. 認知症の危険因子
アルツハイマー型認知症では,加齢(年齢と共に発症率は著しく増加する),家族歴(片親が認知症であれば本人が発症する危険性は10-30%上昇),動脈硬化の危険因子(糖尿病,高血圧,喫煙,高コレステロール血症など,いわゆる生活習慣病)が危険因子となるほか,高血圧治療のための血圧降下薬の服用で脳が酸欠状態となり神経細胞が障害されて認知症を発症することもあります(図2)。
これらの危険因子の多くは,脳血管性認知症の危険因子でもあります。近年,特に脳血管性障害や糖尿病がアルツハイマー型認知症の背景にある可能性が高いことも解ってきました。
2.3. 認知症の症状
認知症の主な症状は,性格や環境などによって個人差がありますが,大きく,4つの症状が現れます。
1)中核症状
知的能力の低下
健忘:物忘れがひどくなる。
見当識障害:日時,場所,人がわからなくなる。
思考障害:考える力,理解する力が低下する。計算ができなくなる。
認知障害:物事を見分け判断する力が低下する。人違いをする。
2)周辺症状
2−1)心と行動の障害
心の障害
夜間せん妄:夜になると興奮し言動がおかしくなる。
不眠:夜眠らない。
幻覚:あるはずのないものが見えたり聞こえたりする。
妄想:ありえないことを固く信じ込む。
抑うつ:気分が落ち込む。
行動の障害
徘徊:歩き回る。
不眠:夜眠らない。
暴力:ささいなことで怒りだして暴力をふるう。
異食:食べられない物を口に入れてしまう。
弄便:便をいじる。
2−2)日常生活能力の低下
食事,排泄,入浴,着替えなど,日々暮らすための基本的動作ができなくなる。
2−3)身体の障害
歩行障害:
嚥下障害:食べ物の飲み込みが悪くなったり,むせたりする。
膀胱直腸障害:尿や便が出にくかったり,失禁したりする。
3.認知症治療薬の現状と漢方薬
3.1. 認知症治療薬
3.1.1.
アルツハイマー型認知症治療薬:
現在,アルツハイマー型認知症では症状の進行を遅らせたり,症状を改善したりする薬としてアリセプト(ドネペジル:エーザイ社),レミニール(ガランタミン:ヤンセンファーマ社),メマリー(メマンチン:第一三共)が承認されている。アリセプトとガランタミンは何れもアセチルコリン(ACh)と呼ばれる神経伝達物質の分解を抑制する働きを持つ薬です。アルツハイマー型認知症患者の脳内では学習・記憶に重要なACh神経系の障害があり,そのためAChが減少していることが知られています。アリセプトもレミニールも分解酵素(アセチルコリンエステラーゼ:ACHE)を抑制してAChを補充してあげる薬です(図3)。一方,脳内ではグルタミン酸神経系が神経細胞の興奮伝達や細胞障害に関わります。メマリーは,グルタミン酸神経系のNMDA受容体という受容体蛋白の機能を抑制して作用する薬です。残念ながら,これらの薬はアルツハイマー型認知症そのものを完治させるような働きはありません。
図3
3.1.2.
脳血管性認知症治療薬
脳血管性認知症治療薬においても根本的に治療する薬はありません。むしろ脳梗塞や脳出血の再発を抑制する目的で,血小板凝集抑制剤や脳循環改善薬が利用されます。アリセプトなどのアルツハイマー型認知症治療薬の適用についても盛んに調べられ,有用性が示唆されています。
表1 認知症治療で有効性が臨床報告されている漢方薬
漢方薬 |
構成生薬 |
漢方での適用症状 |
対象患者 |
臨床試験法 [文献] |
釣藤散 |
釣藤鈎(3), 陳皮(3),半夏(3),麦門冬(3),茯苓(3),人参(2),菊花(2), 防風(2), 石膏(5),甘草(1), 生姜(1) |
慢性的な頭痛感,めまい感のある中年以降,または高血圧傾向のあるもの |
脳血管性認知症 |
プラセボとのランダム化比較試験 二重盲検ランダム化比較試験 |
中度認知障害を発症した脳卒中患者10例 |
症状観察データはpaired
t-testで,事象関連電位変化は繰り返し分散分析で解析 |
|||
八味地黄丸 |
地黄(6),山茱萸(3),山薬(3),沢瀉(3),茯苓(3),牡丹皮(2.5),桂皮(1),修治附子(0.5) |
疲れやすくて四肢が冷えやすく,尿量減少または頻尿で,口渇のある次の諸症。腎炎,糖尿病,坐骨神経痛,腰痛,排尿困難,頻尿,高血圧など |
アルツハイマー病や脳血管障害を伴うアルツハイマー病 |
二重盲検ランダム化比較試験 |
抑肝散 |
蒼朮(4), 茯苓(4), 川?(3), 当帰(3),
柴胡(2), 甘草(1.5),釣藤鈎(3) |
虚弱な体質で神経がたかぶるものの次の諸症状。神経症,不眠症,小児夜泣き,小児癇症 |
アルツハイマー病,脳血管性認知症,脳血管障害を伴うアルツハイマー病,レビィー小体に伴う認知症 |
ランダム化比較試験 |
構成生薬欄括弧内の数字は生薬分量(g)を示す。EBM漢方(喜多・寺澤ほか)での表記を改編
3.2. 漢方薬
近年,アルツハイマー型認知症や脳血管性認知症の治療における漢方薬の有効性に注目した臨床研究が盛んに行われています。なかでも釣藤散,八味地黄丸,抑肝散などについては比較的多くの患者を対象とした質の高い臨床研究があり,特に周辺症状に対する有効性が認められています(表1)。一方,認知症モデル動物を用いた漢方薬,漢方薬の構成生薬,あるいはその生薬成分の治療・予防作用を研究した論文も数多く発表されています。
3.2.1. 釣藤散
釣藤散は,釣藤鈎を主薬とする計11種の生薬から構成される方剤です(図4)。漢方医学では気の上昇が強く,頭痛,めまい,のぼせ感,肩こり,眼球結膜の充血がある神経症などの症状(証)に使用されます。近年,寺澤らは,頭痛を訴える認知症患者に釣藤散を適用したところ,頭痛だけでなく認知症の諸症状を改善する事例を偶然,観察し,これを切っ掛けに臨床研究を開始しています(“新しい漢方−東洋の知と医療”寺澤捷年先生に聞く:2004年 考古堂刊より)。その結果,脳血管性認知症患者での有効性が最初に報告された漢方薬です。
私たちは,1994年に脳血管性認知症の動物モデルの作製に成功し,障害の発症機序と薬物の影響について検討してきました(Brain Res., 653: 231 ? 236, 1994)。
そこで釣藤散の臨床的効果を実験的に検証し,その作用メカニズムを明らかにする研究を開始しました。
3.2.2. 脳血管性認知症モデルと釣藤散
1) 釣藤散による学習記憶障害改善
脳虚血状態が痴呆発症の重要因子であることから,これまでに種々の急性的あるいは慢性的な脳虚血状態を現出させるモデルが作製されています。我々は,脳血管性障害病態モデルとして主に慢性的な脳虚血モデルを作製し,薬物作用の評価と学習記憶障害の発症機序の解析を水迷路試験で行いました(図5)。その結果,@慢性脳虚血モデルでは水迷路行動試験で顕著な学習記憶障害が発症すること,Aアセチルコリン分解酵素抑制薬タクリンも漢方薬・釣藤散エキスの何れもこの障害を改善すること,そしてBそれらの効果は投与を休止すると消失することが明らかになりました。
2) 釣藤散特有の作用か?
釣藤散で認められた効果は,釣藤散であるが故に認められるのでしょうか,それとも漢方薬であれば効いてしまうのでしょうか。この点を確かめるために,私たちは釣藤散とは全く臨床的用途の異なる漢方薬・柴胡桂枝湯についても調べてみました。
柴胡桂枝湯は,「柴胡,桂枝,黄岑,芍薬,大棗」と「人参,生姜,半夏,甘草」から成り立つ漢方薬で,後者の4種生薬は釣藤散にも含まれます。しかし,漢方的効能は「除寒?熱,解表調中」で臨床的には流行性感冒,肺炎などの炎症性疾患に用いられます。ですから釣藤散とは全く異なる薬能を持ちます。私たちの実験では,柴胡桂枝湯には釣藤散のような改善効果は認められていませんでした。従って学習記憶障害改善効果は,漢方薬としての釣藤散の特徴の一つと言えるかも知れません。
3.2.3. 加齢や糖尿病を危険因子とする認知機能障害と釣藤散
アルツハイマー型認知症と脳血管性認知症は何れも,加齢や,糖尿病などの生活習慣病が重要な危険因子であることは,先に述べました。このような背景がある故に,認知症の治療に難しさがある可能性があります。そこで私たちは,認知症の危険因子として加齢,脳虚血,糖尿病に着目し,それらの要素を含む動物モデルを用いた漢方薬の研究を進めています。
1)
加齢動物モデルの認知障害と釣藤散
加齢で起こる認知障害とそれに対する漢方薬の影響を研究するために,通常よりも老化が早く進行する動物SAMP8(老化促進動物)と正常老化を示すSAMR1というマウスを用いています。これらの実験動物の知的機能を解析するために,新奇物体認知行動試験という方法を使い,物体を見分け,判断する能力を解析しています。20週齡SAMP8(壮齢)は,同じ週齡のSAMR1や7週齡SAMP8(若齢)と比べ,この能力が明らかに低下しています(図6)。これは認知症患者に観られる認知機能の障害と類似します。しかし,このようなマウスに釣藤散エキスを投与しておくと,その障害が改善されて,若齢マウスあるいは正常老化動物と同様に物体を上手く見分けることができるようになりました。
2)
糖尿病モデル動物の認知障害と釣藤散
もう一つの危険因子として糖尿病動物で発症する学習記憶能と釣藤散の効果を解析しています。
2型糖尿病動物モデルとしてdb/dbマウスを,その対照としては正常動物m/mマウスを用いています。db/dbマウスでは摂食を抑制するメカニズムに障害があるため,正常動物よりも著しい血糖値の上昇と体重増加が成長と共に現れてきます。
図7
図7に示しますように,この2型糖尿病モデル動物では,肥満のために動きも緩慢になり,水迷路試験での遊泳速度は正常動物の約30〜50%まで低下しています。このように運動能力の異なる動物の学習記憶能力を客観的に評価するために,db/dbでは観察時間を通常の2倍に延長し,観察時間と避難台に到達するのに要する時間の割合として学習記憶行動を評価する工夫をしました。この方法で正常動物と比較した結果,db/dbでは顕著な学習記憶障害が発症することがりました。一方,予め釣藤散エキス(375−750 mg/kg/day)を処置したdb/dbでは,訓練期間中の遊泳速度自体には変化はありません。しかし,避難台まで到達するまで時間は訓練に伴って短くなり,避難台に効率的に到達する戦略を習得していくことが解りました。釣藤鈎エキス投与では血糖値には影響しません。従ってこれらの成績は@糖尿病態では学習記憶障害が発症すること,Aそして釣藤散は糖尿病でおこる学習記憶障害の発症を抑制できる可能性が高いことを示します。
3.2.4. 釣藤散はどのように作用するのか,何が効くのか?・(少し話しは難しくなりますが)
私たちの成績は少なくとも漢方薬釣藤散が認知症の危険因子を含む認知症モデル動物で有効性があることを動物行動の評価を通して明らかにしています。では動物の脳の中ではどのようなことが起きているでしょうか。
図8
学習記憶にはアセチルコリン神経系やグルタミン酸神経系が基本的に重要な役割を果たしています。これらの神経系を障害すると学習記憶障害が起こります。そこでこれらの神経系の情報伝達機能を反映する脳内因子(CaMKII-P, CREB-P,
NMDA-P, BDNF)の発現量(図8)を解析したところ,@加齢,慢性的脳虚血,糖尿病などの危険因子により低下すること,またAこれらの発現量低下は釣藤散エキス投与によって回復することが解りました。これらの成績は,釣藤散の有効性を脳内分子レベルで裏付けると考えられます。
さらに最近,糖尿病モデル動物の脳を組織化学的に調べた結果,成長につれて中隔や前脳基底核と呼ばれる脳部位のアセチルコリン(ACh)神経細胞が減少していることが解りました。これらの部位に局在するACh神経は,脳高次神経機能に重要な大脳皮質や海馬と呼ばれる脳部位に情報を伝達する重要な細胞です。したがってこれらの部位のACh神経細胞の脱落が,糖尿病モデル動物の学習記憶障害の発症に関わる可能性があります。そこで,釣藤散やそれと類似の作用をもつ薬を処置した糖尿病モデル動物について同様に解析した結果,ACh神経細胞の脱落が抑制されることが解りました。
4.まとめ
これまでの私たちの実験成績は,脳血管障害や加齢,あるいは糖尿病と言った認知症の危険因子を含む認知症モデル動物で発症する学習記憶障害や認知障害に対して漢方薬釣藤散が有効であることを示しています。しかし,釣藤散に含まれるどのような成分あるいは成分群が,どのようなメカニズムで有効性を発揮しているのかについては,私たちはまだ明解な答を得ていません。釣藤散をはじめ,認知障害に有効な漢方薬を投与した場合,どのような漢方由来の役者(成分)が脳の中に現れて,脳のどのような舞台(組織や細胞)で,どのような役を演じ(影響)ているのかを突き詰める必要があります。
今日,盛んに抗認知症薬の開発研究が行われています。例えばそれらの薬が1錠どのくらいの値段であるか知っているでしょうか。月にどれほどの費用がかかるのか計算したことがあるでしょうか。薬は効果と薬価が重要です。漢方薬の効果と薬価を考えるとそれらの薬に引けを取りません。ですから,漢方薬という伝統の中から,新しい認知症治療のメカニズムを突きとめ,そこから新しい伝統薬を作り出すような研究を進めることによって,認知症という難題解決に挑んでみたいと考えています。